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尾崎豊


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尾崎豊のプロフィール)
1965(昭和40)年、東京都練馬区で二人兄弟の次男として誕生。東武東上線の東武練馬駅が当時としては最寄りの、練馬区立田柄第二保育園から練馬区立田柄第二小学校に入学するが、尾崎一家が同じく東上線の朝霞駅最寄りの埼玉県の朝霞市に新居を構えた為、1976年8月12日に埼玉県朝霞市へ転居。小学校5年の2学期より、朝霞市立の小学校へ転校する。父親が防衛庁職員であったため、いずれも陸上自衛隊練馬駐屯地と朝霞駐屯地の近くであった。母親は保険の外交員で暮らしは決して裕福ではなかったが、教育熱心な家庭であった。

学校を卒業すると本人の強い希望により練馬東中学校へ越境入学する。生徒会副会長を務めたが喫煙により停学処分を受ける。高校は青山学院高等部に合格。さらに、1月15日に受けた陸上自衛隊少年工科学校の1次試験に20倍の競争率を突破して合格した。しかし髪を短くしなくてはいけないと言う理由で、既に合格していた青学に進学することになった。高校在学中にも喫煙で停学、さらに飲酒で無期限停学処分を受ける。これがファーストアルバムを制作する契機となる。のちに停学処分は解けたものの出席日数が足りず留年となり、自主退学。

ファーストアルバムでの歌詞は何度も書き直されたもので、リテイクの嵐だったソニーでのレコーディングは、尾崎の持つ情熱をいかに文字として表現させるという事が当初のテーマであった。デビュー当初の評価は完全な口コミであったため、ファーストアルバムである『十七歳の地図』は3千枚を売るのも大変で、当初はセールス的には成功しなかった。[要出典]しかし、その後徐々に人気が出て『卒業』の大ヒットにより、その地位を確立した。セールスが伸び悩んだのとは逆に、音楽評論家からは大絶賛され、音楽雑誌では早くも特集が組まれた。中には10ページ以上尾崎の記事や写真で組まれた特集もあった。尚、尾崎自身のイメージを保つ為に、10代の頃の写真は全て白黒写真にて掲載された。

特に10代の頃は大人への反抗や反体制をテーマにした歌を多く歌い、新聞などで「10代の教祖」とも呼ばれたが、本人及びコアなファンはこうした呼称を嫌っていたとも言われている。だが、校内暴力が横行していた時代と相まって一種の社会現象ともなる(深夜に中学校の窓ガラスを割って回るなどの狼藉を働く者は尾崎デビュー前からもいたが、シングル「卒業」の歌詞に触発されて行った若者もあったと見られる)。また、尾崎の詞を研究するファンにおいても、単なる校内暴力肯定等と解釈することへの批判が見られる。

1992(平成4)年4月25日、尾崎豊は突然この世を去る。早朝の足立区千住河原町の民家の軒先に傷だらけで倒れていたところを住人に発見され、通報で病院に運び込まれる。体が傷だらけだったが診察した医師は深酒のみという診断で尾崎は妻とともに自宅マンションに戻る。しかし、午後になり呼吸が止まっているのに気がついた家族が救急車を通報したが、搬送先の日本医科大学付属病院で死亡した。

葬儀は東京都文京区の護国寺にてファン葬が行われ、参列者は4万人近くに上り、美空ひばり、吉田茂に次ぐ規模であった。密葬は日蓮正宗流にて営まれ、墓所は埼玉県所沢市にある。


死後のエピソード
尾崎豊に覚醒剤での逮捕歴があることからしばしば誤解を受けるが、司法解剖時に検死をした支倉逸人によれば、尾崎の死因は、経時的な悪化による薬物中毒死ではなく、致死量の2.64倍以上の覚醒剤服用(オーバードーズ、薬の多量摂取)による急性メタンフェタミン中毒が引き起こした肺水腫と結論付けられている。また、尾崎の遺体には暴行を受けたような傷やあざもあり、亡くなった日の状況がきわめて不自然であることから、他殺とする説もある。ただ警察は、状況捜査や司法解剖を行った結果から「事件性なし」として調査を終結している。そのため、尾崎豊が亡くなってから約2年後に、10万人近くの尾崎ファンの署名を集めた再捜査嘆願書が警察に提出されたが、受理されなかった。7年後の1999年には写真週刊誌『フライデー』に蘇生措置を施している様子の写真が掲載され、当時の捜査員の証言などもあって、その死因の不可解さが深まった。だが、検死をした支倉逸人の著書によれば、擦過傷と打撲傷をじっくり調べた結果、他殺をうかがわせるようなものはなかったとの記述がある。またそれを裏付ける、転倒したり暴れて転げ回っていたという証言がある。だが、はっきりしたことがわからないため、今までに尾崎の生涯を描いた多数の漫画作品やテレビ番組においても、尾崎豊が死んだ様子は全く触れられていない。

尾崎豊の死後、尾崎のアルバムが急激に売れる現象が起こり、1992年5月25日付けのオリコンアルバムチャートでは、TOP10中6作を尾崎が占める現象が起こった(1位「放熱への証」、4位「回帰線」、5位「十七歳の地図」、6位「LAST TEENAGE APPEARANCE」、7位「壊れた扉から」、9位「誕生」。なお、TOP10外に14位「街路樹」がある)。また、1992年6月16日、6月17日に日本武道館でライブを予定されていたが、尾崎の死によって中止となった。しかし、チケットを手元に置くファンが多かったためか、チケットの払い戻しに来る人はほとんどなかった。

現在、尾崎が倒れていた東京都足立区の千住河原町の民家の部屋は所有者の好意によってファンに開放されており、「尾崎ハウス」と呼ばれ、ファンの交流の場になっている。

生前の尾崎の友人の1人として、デビューが同期の吉川晃司が挙げられる。2人でステージを競演しようとしたが、尾崎が本番前に足を骨折してしまい、実現しなかった。クールなイメージのある尾崎だがプライベートの尾崎は普通の明るい好青年であった。吉川晃司の他に、岡村靖幸との交流も有名であり、大友康平、泉谷しげる、キラー・カーンなども素の尾崎を懐かしむコメントを出している。世間が尾崎に抱くイメージとのギャップが彼を苦しめたのだという意見も根強い。意外にも、光GENJIとしてデビューする以前の大沢樹生とも、よく夜の六本木で遊んでいた。弟分として、俳優の吉岡秀隆がいる。尾崎の影響を受け、曲作りを始めたという。彼が出演した「北の国から」では、尾崎の曲をBGMとして使ったこともある。生前、尾崎豊は自作の小説『幻の少年』を映画化することがあれば、吉岡を主人公にしたいと思っていた。

尾崎豊の代表曲である『I LOVE YOU』はアジア各国の歌手にカバーされ、カバー曲を含めた総売上は全世界で1000万枚に達する。その思想や活動、若者におけるカリスマ的人気から、中学・高校などの教育現場で長らくタブー視されて来たが、死後、十年以上経った現在では、評価も変わって来ており、高校教科書に顔写真や『15の夜』の歌詞が掲載される(『高等学校 新倫理 - 人間とは何か 思索の糧に - 』 清水書院、2002年)。『新課程用 倫理用語集』(山川出版社、2005年)には、「尾崎豊」は用語頻度「3」で掲載され[1]、「1980年代に活躍し、夭折したシンガーソングライター」「自ら作詞・作曲した歌の世界に没頭しながら全身全霊をこめて歌い」というように記述されている(出展:Wikipedia)


タグ:尾崎豊
posted by 鹿 at 14:43 | 日記


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